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ACを癒し本来の自分を探したい 〜生い立ち〜

ACを癒し本来の自分を探したい〜生い立ち〜

こんにちは、久々の更新。ゆかりです。ご機嫌いかがでしょうか?

この記事では、私がどんな生い立ちで、どんな人生を歩んできて、今後どうしていきたいかを語っています。

田舎の自営業の家に生まれて






栃木のとある市で、第二子・長女として生誕。
兄と弟に挟まれた中間子で、兄とは3つ、弟と4つ離れている。

商売を営む家庭に産まれたが、たまたま母の実家も運動用品の販売店を営む商売をする家庭で、両親共商売人の娘として育った。
私が小学校へ上がるくらいまでは会社の事務所や倉庫(商品を保管するため)が自宅敷地内にあった。
その為、会社の従業員の皆さんに小さい頃から良くしてもらっていて、生まれた時から沢山の人に囲まれて育ってきたのだ。1階の事務所へ行けば10数名の大人が居た為、一緒にボールで遊んだり、なぞなぞに付き合ってもらったりして相手にしてもらっていた。
この環境って誰にでもあることじゃないし、今思えば、結構貴重な体験だったのかもと思ったり。赤ちゃんの時から家(事務所)に複数の大人が出入りしたり、取引先さんが出入りしていたので、色々な大人と関わって育ったということだ。
今も人が好きなのは、こういったバックボーンが影響いてるのかも。

また、実家は学歴至上主義で、東北、一橋、上智、明治など、叔父叔母や従姉妹はみな名門大学が当たり前だった。
そんな中勉強が苦手な私はいつも肩身が狭かった。

うちの兄弟は三人とも、地元の国立大学附属の幼稚園〜中学まで一貫校へ通ったが、兄と弟は県で一番の高校へ入り、それぞれ一橋、北里獣医へ進んだ。私はと言うと、高校受験で希望したところへ入れなく、1学年25組・1万人近くもの生徒が在籍する、マンモス私立校へ進学した(作新学院ではありません)。

小学校ではよく兄と比べられ、勉強ができる兄を特に可愛がっていた算数の先生には校内で会うと「おお、(兄の名前)はあんなに勉強できるのになぁ!はっはっは」みたいなことを確か言われていたが、普通に嫌だった(汗)。

 

母からの強い束縛






男に挟まれた一人娘ということで、よく「可愛がられたでしょう」と言われるが、あんまりそんな記憶はなくて、母のあたりはいつも私へは特に強かった。
特に、兄や弟と競わせ「男になんか負けるな!」と言ってみたり、はたまた別の時は、家事のお手伝いをさせたい時は私だけを呼び「女の子でしょ、そのくらいしなさい!」と私に男性性・女性性両方を強要しているようだった。
今思うと都合よく性別を使い分けられていたなと思う。
(別記事に書いたいが、私が「女性性」を自ら否定して受け入れられない理由はこの辺にもある気がしている)

中学校は私服制度だったが、自分で服を選ばせてもらったことがない。
自分で選ぶと、「何その格好?恥ずかしくないの?!ダサいわね〜!」と毎回全否定され、「お母さんが出してやった服きなさい!ほら!」と言って、私の権利は奪われてしまった。

それ以外の場面でも例えば、友人三人で遊ぶことになって電話で話していると、モタモタしていた私の言動に痺れを切らし口を挟んできて、結局その日は他の二人だけで私に黙って遊んでしまったことがあったり。
子供には子供だけの世界があるので、親は口を挟まない方がいいと思う。
おそらくこの時も、突然母が入ってきたことで話がこじれたし、友人達は「なにゆかりちゃんのお母さん?めんどくさい」と感じてしまったんだと思う。

高校生になってからも、私が自分の帰宅時間(大体18時頃)に家にいないとパニックになり、私が電話に出るまで(その頃やっと普及し始めた携帯電話。j-phoneを使ってた)電話を鳴らし続けたりした。着歴一覧は恐ろしいことに。

実際、たまに塾をサボったりデートをすることはあったが、あまりにも異常で本当に怖かったし嫌だった。
母はなぜこんなにも余裕がなかったんだろう?「女の子は何があるか分からないから」と極度に心配をしてくれたが、正直度を超えていたと思う…
迷惑でしかなかった。

 

兄からの執拗な言葉の暴力・肉体的暴力

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3つ違いの兄は、勉強ができ、学級委員を務めるなどいわゆる「外面がいい」タイプだった。
共働き家庭だったため祖母が私たちの学校帰りの面倒をみてくれたが、可愛い孫のためと祖母はせっせと甘いジュースやお菓子を買い込んだ。その影響で兄は小学校時代(高校生くらいまで)豚のように太っていた。にも関わらず、自分を棚に上げて、毎日私のことを「デブ、ブス、バカ」と罵ったり、ガッチャマンの替え歌で(最後の部分の歌詞をブスに替えたり、デブに替えたり)私をいじめた。

かと言って自分がちょっとでも「太ってる」ことに触れられると、手に負えないほどに暴れ、私などは鳩尾(みぞおち)を思い切り殴られた。ひどい時は息ができないほどの激痛だった。プラスチックのバットで背中を殴られることもあった。祖母しかいないので、止められる人はいなかった。
弟も同様にいじめられたが、7つも離れているせいか、私ほどではなかったように記憶している。とにかく私には辛く当たった。今でも許せないでいる。

言葉の暴力やネガティヴな言葉のシャワーの影響は絶大で、毎日(本当に毎日。顔を見る度に)「デブ、ブス、バカ」のシャワーを浴びせられ、高校・大学生の頃に母からも「あんたは空っぽだ」「自分が無い」とネガティヴな言葉を聞かされ、自覚はなかったが本当に私は自分が嫌いで自信のない人間になった。
特に母の「中身がない」は、兄も便乗して罵ってきたことで大学生活は本当に空虚なものだった。別の記事で触れるがこの時期(19、20歳)には恋愛依存&摂食障害で真っ暗な日々だった。自分の中では完全に蓋をしている「黒歴史」となり、あまり人に話したことがない。

そんなこんなで、家族からネガティヴな言葉を投げつけられ続け、かくして私のセルフイメージは地に落ちていった。

少し前にこんなツイートをした。自己肯定感は、子供のうちは身近な人の言葉や環境で形成される。特に親だ。というか元々産まれた時に満タンだったのに、産み落とされた環境によって自己肯定感は削がれて減っていくのかもしれないという話も聞いたことがある。

つまりやはり、何だかんだと言っても自分の身近な家族にどんな言葉をかけてもらうかに掛かっていると言えるのだと思う。

そんなわけで自己肯定感もセルフイメージも底辺な私だが、大人になって一人で社会で生きるようになってから知り合った沢山の友人や先輩によって助けられてきた。生きるヒントや自信を取り戻すきっかけ、ポジティブな人たちと過ごす貴重な時間などなど。

大人になった今、自分で自分のセルフイメージは改善していくしかなく、そのために身を置く環境や付き合う人の人間性なども選んでいくことが重要になると思っている。
こういった考え方は、私が行うセッションのクライアント様にもいつも伝えていること。

 

母に「おかえり」を言われたことがなかった子供時代

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これは私の人生のテーマでもある。「子供が帰ってきたときにお母さんがいるかいないか問題」。
自宅は祖父母と二世帯住宅で、18歳上京するまでは、実家には常に祖父母(現在は二人とも他界)がいたものだ。物心つく前は、お手伝いさん(家政婦)がいて、母以外の大人に囲まれていた。

しかし子供としてはやはり「お母さん」なんだよね。取って変われないものだ。友人は専業主婦家庭が多く、遊びに行くと大抵お母さんが出迎えてくれ、「いらっしゃい、ケーキ食べる〜?」という当たり前の会話。なんて羨ましい…。

私は幼稚園のお迎えは祖母、小学校以降ももちろん帰宅時家にいたのは祖母だけ。
祖母には本当に可愛がってもらったけれど、なんか違うんだ。
祖母にはよく地元のデパートに連れていって貰った。今のようにイオンやイトーヨーカドーなどの量販店もないので、行く先といえば決まっていた。そこで祖母の買い物に付き合い(レリアンという婦人服やさんによく行っていた)、最後に「ジロー」という7階にある洋食レストランでクリームソーダを毎回頼んだ。これが楽しみだったのを覚えている。

おもちゃを買ってもらった記憶はあまりない。兄はよくせがんでいたが、私は欲しいものがそれほどなかった気がする。それよりも心の充足を求めていたのかもしれない。

そういった背景があり、母と過ごせる時間はあまりなかった。もっとも物心がつくまではかなり病弱だったので、つきっきりでお世話をしてくれたそうだが。

母は18時頃帰宅するとすぐに夕食作りに取り掛かった。常に忙しそうにしていて、いつもイライラしていた。
忙しそうな母に話を聞いてほしくても、途中で話を遮られたり、結末を先周りして言われてしまったり、「今忙しいからあっち行っててよ、もう」と言われたり。リビングに戻ると兄が我々下の兄弟に言葉と体の暴力を振るうし、カオスだ。

いつか私は母に言った。「私はお母さんみたいにならないから!家に帰ってきたときに子供を迎えられるようにする」と。確か20代の頃だった気がする。
結局息子が生まれて、4年間はワーキングママをやっていたが、もしかしたら心のどこかにやはり残っていたのかもしれない。
正解はわからないが、もうすぐ小学校に上がる息子を前に、私は「家に居られる環境」を目指したいと思ったのかもしれない。
結果的にサラリーマンを辞めたが、この先まだどうなるかは不明。

でも、きっと潜在的に「おかえりを言える母」を目指したいのかもしれない。

 

答えを出すための人生の旅は続く…